記録(2023年1月28日)*趣味と飽きと
趣味とか熱中できるものが定期的に変わる私です。
何かにお熱のときには精神的にも頗る快調で大変よろしいのですが、
冷めてくると、次第に生活が精彩を欠いて虚無感を覚えるようになります。
虚無感が不味い、というわけではないです。
これは「新しいことに挑戦しなさい」というサインなのだと考えています。
今まで熱中できていたことを前のように楽しめなくなるのって辛いです。
作曲に関して一番その気持ちが大きく、今もなにか歯がゆさを感じています。
面白く、そして、心地良いものを作りたいのに、どうにも巧くいかない。
作りたいけど作れないという創作意欲の矛盾に板挟みされる。
そこで、いっそのことやめてしまおう、距離を置こう、
また気が向いたときに戻ってくればいいか、と身を引くと、
他のものに目が向いて、ちゃっかり新しい趣味を楽しめる自分を発見します。
ふと、「ああそういえば作曲やってたな、またやろう」と気軽な思いが出てくる。
こういう心持で良いのだろうな、と。
それでは。
記録(2023年1月27日)*読書メモ
何十年も同じことをくり返していれば、大てい、あきらめや無常感が身にしみるでしょう。それがにじみ出たものが味であり、さび、渋みです。
岡本太郎『今日の芸術』143頁
諦めの境地が「さび」となる。質的な価値の向上を生む。
自分が描いてもいい、すぐ描けると思うような、平易で、単純、だがしかし、生活的な、積極性をもった形式こそが、今日の芸術、今日の美なのです。
岡本太郎『今日の芸術』149頁
自分の意志と責任をもってやるでたらめは、ほんとうはでたらめではないのです。
岡本太郎『今日の芸術』154頁
「自由に描いてごらん。」「勝手に書いてみろ。」と言われて、しかもその方がはるかにむずかしくて、描けなくなる。これは、いかに「自由」にたいして自信がないかを示すものです。
このような矛盾した、不自然な心理状態を見すごしてはなりません。これをどんどん追及して芸術、そして自分の生活の問題として、はっきり考えていかなければならないのです。
岡本太郎『今日の芸術』155頁
でたらめはそうできるものでない。
自分の姿をありのままに直視することは強さです。だれでもが絵を描き、おのれをすなおに表現するということは、不必要な価値観念をすて、自分を正しくつかむ、きわめて直接的で純粋な手段であり、それによってまた、もっとも人間的な精神の自由を獲得することができるのです。
岡本太郎『今日の芸術』156頁
要するに、芸術の問題は、うまい絵をではなく、またきれいな絵をでもなく、自分の自由にたいして徹底的な自信をもって、表現すること、せんじつめれば、ただこの”描くか・描かないか”だけです。あるいはもっと徹底した言いかたをすれば、「自信を持つこと、決意すること」だけなのです。
岡本太郎『今日の芸術』157頁
芸術=自由への自覚
いつでも他人にたいするおもわくに重点をおいて生活しているうちに、いつのまにか精神の皮が固くなって、おのれ自身の自由感というものを忘れてしまい、他人の自由にたいしても無感覚になってしまうのです。
岡本太郎『今日の芸術』162頁
謙虚という「型」をたてに、そのかげで大ずる小ずるがまさに百鬼夜行です。
岡本太郎『今日の芸術』203頁
権力者には無条件で頭をさげる。ちょうど封建時代に、しもじもの賤民が大名行列に出あうと、ただ坐りこんで地面に頭をこすりつけるのと同じで、そうしていれば無事にすんだ時代の、厄のがれ気分が、まだまだ圧倒的にのこっているのです。自分を殺すということには慣れているわけで、そう見せておいて消極的に生きのびることには、何百年来の習慣でそうとう磨きがかかっているのです。
岡本太郎『今日の芸術』203頁
「誰かが」ではなく「自分が」であり、また「いまはダメだけれども、いつかきっとそうなる。」というのでもなく、「自分が、現在、すでにそうである。」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。
岡本太郎『今日の芸術』206頁
公言は公約です。「おれこそ芸術家である。」と宣言した以上、すべてそれ以後のわざわいは、おのれだけに降りかかってくるのです。だまっていれば無事にすんだものを、キジも鳴かずばうたれまい、言ったばかりに徹底的に、残酷に、地獄の責苦にちかいほどの責任をとらなければなりません。言ったことが大きければ大きいほどそうなんです。
岡本太郎『今日の芸術』206-207頁
近代社会においては、自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。
岡本太郎『今日の芸術』207頁
ちょうど生物がつねに新鮮な異物を外からとり入れて、新陳代謝してゆかないと自分じしんの排泄物で汚毒され、中毒するように、われわれはそれを批判し、のりこえて、むしろべつな新しい要素を積極的にとり入れてゆかないかぎり、どうしようもない頽廃におちいってしまいます。
岡本太郎『今日の芸術』214-215頁
それでは。
記録(2023年1月24日)*読書メモ
16時間近い空腹時間を設けるようにしてます(努力目標)。
芸術は、つねに新しく創造されなければならない。けっして模倣であってはならないことは言うまでもありません。他人のつくったものはもちろん、自分じしんがすでにつくりあげたものを、ふたたびくりかえすということさえも芸術の本質ではないのです。このように、独自に尖端的な課題をつくりあげ前進してゆく芸術家はアヴァンギャルド(前衛)です。これにたいして、それを上手にこなしてより安易な型とし、一般に実用化させるのはモダニズム(近代主義)です。したがって、双方の作品は一見似かよっているのですが、内容的にはまったく正反対の要素をもっているのです。
岡本太郎『今日の芸術』84頁
タローマンは自己模倣が一番許せない。
私的にはモダニズムの在り方の方が好ましいですね。
もう少し、突っ込んでお話しましょう。ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものなのです。しかも、それがまた新しい流行をつくってゆくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしてゆくものです。芸術家は、時代とぎりぎりに対決し、火花をちらすのです。
一言でいえば、モダニスト(近代主義者)が時代にあわせて、その時の感覚になぞえにゆくのにたいして、真の芸術家はつねに批判的です。正しい時代精神が現存する惰性的なありかたに反抗し、それをのり越えてゆくという反時代的な形で、おのれの仕事を押し出してゆくのです。
岡本太郎『今日の芸術』84-85頁
今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはいけない。
心地よくあってはならない。
岡本太郎『今日の芸術』84頁
ところが、このように、今までそれなしには「すぐれた芸術」とはいえないとされていた絶対の条件が何ひとつなくて、しかも見るものを圧倒し去り、世界観を根底からくつがえしてしまい、以後、その人の生活自体を変えてしまうほどの力をもったもの、ー私はこれこそ、ほんとうの芸術だと思うのです。
岡本太郎『今日の芸術』88頁
心地良くあってはいけない
- 芸術=見た人の価値観を壊す圧倒的なもの、飛躍的な創造物であり、時代の常識を先んじている
- 見た人に一種の緊張が走る、不快感、疑惑、苦痛
- 見る人も創る人とおなじ熱量でもって作品にぶつかる必要がある
- 良い芸術品はいつまでも「いやったらしい」
きれいであってはいけない
- ただ「綺麗だ」で終わるとそれは芸術でなくモダニズムになる
- 「綺麗」は見飽きてしまう
- 綺麗はその時代のその場所に通底した可変の価値観、型であるため
- 「綺麗」は見飽きてしまう
- 「きれい」=一目して分かる心地良さ、美しさとは質的に別物
- 「美しさ」=「きれい」よりも奥深く人に感じ入させる何か
- 「美しさ」は汚いもの、気持ちの良くないものにも使える
うまくあってはならない
- 「うまい」=職人的な巧みさ、器用さ
- 「うまさ」は真の芸術的価値を持たない
それでは。
記録(2023年1月19日)*読書メモ
岡本太郎『今日の芸術』
- 一般の人々も芸術に触れられる=明朗な近代性
- 以前は特権階級、専門家の独占物であったため
- 「たとえ自分では気づかないでいても、人はいつのまにか古い習慣の無批判な虜になっているのです。(20頁)」
- 「自足せず、つねに新しい問題に全身を打ちつけて、古いおのれをのりこえ、精神を新鮮にたもたなければ、いつのまにか不順で無用な垢が、目に耳に、そして心の中にまで、のっぴきならないほど、いっぱいにつまってしまうものなのです。(20頁)」
- そういった「垢」が一体何であり、どのようにして取り除くのか
- 「八の字文化」
- 分からないのことの魅力
- アバンギャルド芸術は「アブストラクト(抽象主義)」、「シュルレアリスム(超現実主義)」に大別される
- 抽象主義:約束事を省き、自由に描く
- 「純粋に画面の構成要素である色と形の、合理的な配置、そしてそれら相互の調和による純粋な美的感動を想像しようというのが抽象画の目的(33頁)」
- 「超現実主義は理性、道徳、美などという、人間生活の上っかわにあって、時代と場所によってつねに移りかわったり、規準をうしなうようなものを徹底的にうたがい、人間性の奥底にひそんでいる本質をえぐり出そうとしました。ひらたく言えば、常識や「八の字」的な約束ごとにゆがめられない、人間の本来の欲望や感動をなまなましく作品に盛りこもうとしたのです。したがって、これは美だとか、理性、道徳などをのりこえることを信条としています。抽象画とは反対に非合理的であり、反美学的な立場です。(34頁)」
- 抽象主義:約束事を省き、自由に描く
- 「いつでも自分じしんで素直に見るということが第一の条件です。(39頁)」
- 「若さというのは、その人の青春にたいする決意できまります。いつも自分じしんを脱皮し、固定しない人こそ、つねに青春をたもっているのです。(45頁)」
それでは。
記録(2023年1月18日)*読書メモ
読書 |
1時間(18時間/月) |
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運動 |
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起床時刻 |
7:30起床 |
「人間のもつとも悲痛の表情は涙でもなければ白髪でもなし、まして、眉間の皴ではない。最も苦惱の大いなる場合、人は、だまつて微笑んでゐるものである。」
大家にならずともよし、傑作を書かずともよし、好きな煙草を寝しなに一本、仕事のあとに一服。そのやうな恥かしくも甘い甘い小市民の生活が、何をかくさう、私にもむりなくできそうな氣がして来て、俗的なるものの純粋度、といふ緑青畑の妖雲論者にとっては頗るふさはしからぬ題目について思ひめぐらし...
こういう心持でありたい。
踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣も起る。戴くは天と知る故に、稲妻の米噛に震う怖も出来る。人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦は免れぬ。
「人の世が生きにくい」の続き。
いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。
「もの」への執着は苦しみを生む。
ただ、詩人とか画家と言った芸術家は、「もの」に執着するのでなく、
その「もの」を食べて自分自身と同化させてしまう。
それでは。
記録(2023年1月16日)*読書メモ
矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。
難しい調子の言葉が並んでいます。
さっぱり分からないが何か大切なことを書いてある気がするので、かみ砕きます。
矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。
矛盾は、特定の性質(力、量、気持ち、体格など)の両極端の要素(例えば量で言えば、「重い」と「軽い」という要素)がお互い同時に成立しないのにも関わらず(量について「重い」と「軽い」という要素が同時期に付与されることはない)、
そういう現実的な解釈を超えて、実際に特定の事物や人の中に認められる状態の事。
→広義で用いられる矛盾と同義。
両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。
両者の間隔(特定の性質における両極端の間隔、量で言えば「重い」と「軽い」の間隔)があまりにも大きいと、かえって矛盾が解決する。矛盾と認められなくなる。世間一般では、その矛盾は矛盾がないとして常識扱いされる。
→あ、と思いついたのが、極小の世界と極大の世界。極小=極大。
相対する事象も、その距離がかなり大きくなると同じものとなり得る。??
哲学的ですね。
それでは。