えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

記録(2023年1月27日)*読書メモ

読書

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何十年も同じことをくり返していれば、大てい、あきらめや無常感が身にしみるでしょう。それがにじみ出たものが味であり、さび、渋みです。

岡本太郎『今日の芸術』143頁

諦めの境地が「さび」となる。質的な価値の向上を生む。

 

自分が描いてもいい、すぐ描けると思うような、平易で、単純、だがしかし、生活的な、積極性をもった形式こそが、今日の芸術、今日の美なのです。

岡本太郎『今日の芸術』149頁

 

自分の意志と責任をもってやるでたらめは、ほんとうはでたらめではないのです。

岡本太郎『今日の芸術』154頁

 

「自由に描いてごらん。」「勝手に書いてみろ。」と言われて、しかもその方がはるかにむずかしくて、描けなくなる。これは、いかに「自由」にたいして自信がないかを示すものです。

 このような矛盾した、不自然な心理状態を見すごしてはなりません。これをどんどん追及して芸術、そして自分の生活の問題として、はっきり考えていかなければならないのです。

岡本太郎『今日の芸術』155頁

でたらめはそうできるものでない。

 

自分の姿をありのままに直視することは強さです。だれでもが絵を描き、おのれをすなおに表現するということは、不必要な価値観念をすて、自分を正しくつかむ、きわめて直接的で純粋な手段であり、それによってまた、もっとも人間的な精神の自由を獲得することができるのです。

岡本太郎『今日の芸術』156頁

 

要するに、芸術の問題は、うまい絵をではなく、またきれいな絵をでもなく、自分の自由にたいして徹底的な自信をもって、表現すること、せんじつめれば、ただこの”描くか・描かないか”だけです。あるいはもっと徹底した言いかたをすれば、「自信を持つこと、決意すること」だけなのです。

岡本太郎『今日の芸術』157頁

 

芸術=自由への自覚

 

 いつでも他人にたいするおもわくに重点をおいて生活しているうちに、いつのまにか精神の皮が固くなって、おのれ自身の自由感というものを忘れてしまい、他人の自由にたいしても無感覚になってしまうのです。

岡本太郎『今日の芸術』162頁

 

謙虚という「型」をたてに、そのかげで大ずる小ずるがまさに百鬼夜行です。

岡本太郎『今日の芸術』203頁

 

権力者には無条件で頭をさげる。ちょうど封建時代に、しもじもの賤民が大名行列に出あうと、ただ坐りこんで地面に頭をこすりつけるのと同じで、そうしていれば無事にすんだ時代の、厄のがれ気分が、まだまだ圧倒的にのこっているのです。自分を殺すということには慣れているわけで、そう見せておいて消極的に生きのびることには、何百年来の習慣でそうとう磨きがかかっているのです。

岡本太郎『今日の芸術』203頁

 

「誰かが」ではなく「自分が」であり、また「いまはダメだけれども、いつかきっとそうなる。」というのでもなく、「自分が、現在、すでにそうである。」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

岡本太郎『今日の芸術』206頁

 

 公言は公約です。「おれこそ芸術家である。」と宣言した以上、すべてそれ以後のわざわいは、おのれだけに降りかかってくるのです。だまっていれば無事にすんだものを、キジも鳴かずばうたれまい、言ったばかりに徹底的に、残酷に、地獄の責苦にちかいほどの責任をとらなければなりません。言ったことが大きければ大きいほどそうなんです。

岡本太郎『今日の芸術』206-207頁

 

 近代社会においては、自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです。

岡本太郎『今日の芸術』207頁

 

ちょうど生物がつねに新鮮な異物を外からとり入れて、新陳代謝してゆかないと自分じしんの排泄物で汚毒され、中毒するように、われわれはそれを批判し、のりこえて、むしろべつな新しい要素を積極的にとり入れてゆかないかぎり、どうしようもない頽廃におちいってしまいます。

岡本太郎『今日の芸術』214-215頁

 

 

それでは。