えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

「不幸分解」

枯れた花

どうも、えりまとです。

小さな「不幸」に遭遇することは、生きていればありますよね。

私も先日それに該当することが起こりました。

大したことではないんですがね...

 

ということで今回は、私の小さな不幸体験をもとに

小さな「不幸」への対処について書いていきたいと思います。



小さな不幸体験

その日は自転車に乗って駅まで向かっていました。

交差点で自転車を押し駆け足で渡り、乗ろうとしたその時、

何故だか、足元がもつれたのです。

バランスを崩しながらも、なんとか自転車に乗ることはできました。

ですが、その直後に縁石に衝突

自転車は大きな音を立てて倒れ

私自身は宙を舞った後、無様に歩道に転がりました

 

不幸中の幸いか、大した怪我もなく周りの人を巻き込むことはありませんでした。

 

不思議とこの時、大した羞恥心は感じなかったのです。そして、

あぁー、危ないことやっちゃったな、気をつけなくちゃ...

という面持ちで、すぐさま倒れた自転車と籠から飛び出たカバンを引っさらい

自転車に跨ってその場を離れようとしたとき、異変に気付きました

 

!?

チェーンが外れている!!

 

どうやら倒れた弾みでチェーンが外れているようでした。

勿論のことペダルは漕いでも空回りです。

 

仕方がないのでチェーンを直すことに。

暫くチェーンの手入れをしていなかったので、黒く汚れてしまっていました。

 

数十秒かけてガシガシとチェーンをギアにはめていれば、

当然手は真っ黒に。

 

引き返して手を洗おうか考えましたが、電車に遅れてしまいそうだったので、

敢え無く、汚れた手のままで駅へ向かいました。

 

駅へ着き、トイレへ駆け込み手を洗おうとしましたが、

洗面所には石鹸がありませんでした

 

同じような経験をしたことがある人はわかると思いますが、

あの汚れって水じゃそうそう落ちません。まぁ、油汚れですし。

 

「汚れが落ちねぇ!カラーボールかッ!」

 

なんて思いながら5分ぐらいかけて、ゴシゴシと手を水で注ぎましたが、

一向に汚れは落ちませんでした

 

「...なんかツイテないな」

 

私はその時、そう感じたのです。

「不幸分解」

さて、私の些細な不幸(?)の一連の経緯を書いてみましたが、ここからが本題です。

 

我々が「些細な不幸」を感じたとき、

どのようにその気持ちを対処するべきでしょうか?

 

私は、そういったとき「不幸を分解していく」ことで、

不幸以上の幸いや新たな発見をできるのではないかと思うのです。

 

実際に、私の「些細な不幸」「分解」してみましょう。

 

まず、「何を不幸と感じたのか?」ということを視覚化してみると、

  1. 自転車で派手にこけたのを周りに見られた
  2. そのことで、ちょっとした羞恥心を感じた
  3. チェーンが外れ、直すのに手が汚れた、石鹸がなくて汚れが落ちなかった

などが挙げられます。

 

ここで挙げられた「不幸」が本当に「不幸」となるのかを考えていきましょう。

 

1と2ですが、これは私の心の持ちようで解決できます。

(実際にそこまで嫌な気持ちにはなってはいませんが)

前の記事に書いた、

 

watoma.hatenablog.com

 「誰も気にしてはいないし、見てはいない」

という思考を反芻します。

もしくは、「実際に見ていた人」の視点を自分の中で鮮明に想像するのです。

 

やられ役のスタントマンのような私の転がり方を見たはきっと

「うわ、こけた!あの人、大丈夫かな?」

と思うはずです。多分。

 

そこには一切の侮辱の気持ちはありません寧ろ人の安否を思いやる気持ち

湧いてくると思いました。

(あくまでも傍観者が良心的な心の持ち主だと仮定した場合ですが。)

 

つまり、このことから言えるのは、

私は一切の恥じらいを感じることはない!

ということではないでしょうか。

 

そして、私自身が提案した

「誰もみてはいなし、気にしてはいない」

という思考法を試す良い機会となりました。

「不幸」を逆手に取った利用方法ですね。

 

ですので、「1と2は全くの不幸ではない」と言えます。

 

次に3についてです。

実は先ほどの話には続きがあります。

水のみで洗うことを断念した私はあることを思い出しました。

アルコールウェットティッシュを携帯していた」ということを。

 

汚れた手で、バッグを汚さないようにしながらそれを取り出し、

手を拭くと、水では落ちなかった汚れがいとも簡単に落ちるではありませんか。

この時ほど、ウェットティッシュに感謝の念を覚えたことはありませんでした。

 

結果的には、アルコールパワーで手の汚れはほとんど落ちました。

そして、ここでの教訓は「ウェットティッシュは常に持ち歩け」ということです。

 

はい、これも先ほどと同じように、「不幸ではない」といえます。

終わり良ければ総て良しです。何も問題はありません(強引な考えである。)

 

以上のことから、「不幸分解」をしてみると、一見「不幸」に見えた出来事が

「不幸」ではなくなりました。

 

結論として、我々が感じる「些細な不幸」というものは、

感じた「些細な不幸」を放置するから「本当の些細な不幸」になってしまうことが

多いのです。

 

本日のまとめ

 

  • 「小さな不幸」は分解して、その不幸が真の不幸なのか吟味することで、多くの場合「不幸な出来事」ではなくなる。
  • 「小さな不幸」を「小さな不幸」として至らしめるのは、起こった出来事を受け取ったままに「不幸なものである」とし放置してしまうからである。

 

 

それでは、また明日。