自分の才能とは何か?
自分の才能は何だか分かりますか?
私は分かりません。そもそもないかもしれません。
今回はえりまとが考える才能を見つけていきたいという話についてです。
目次
自分の才能とは何か?
好きが高じて、その道の専門的な知識や技術を得る。
そして、さらにそこから発展して、自分の中でそのことが占める割合が大きくなり、
それ自体が自分自身のアイデンティティとなり、顔となる。
それが私にとっての「才能」です。
ところで、こう名乗れるかは分かりませんが、私は多趣味のつもりです。
というのも、割と飽き性というか固定して長く続いているものが無いんですよね。
だからこそ、色々なことに手を出すわけですが。
そこで多趣味は才能に直結するのかと、ふと思いました。
「才能」と呼べる状態の条件として、
そこに費やした熱意と時間が多いのかどうかというのも重要な基準となると考えます。
そうなってくると、多趣味の私は、
その時々でころころと熱意を向ける事柄が変遷しています。
それも、全て中途半端な形で。
つまりは私の多趣味という特性は、
才能を開花させることを難化させているように感じるのです。
よって、先ほどの疑問の答えとしては多趣味は才能に直結しないとなりそうです。
(少なくとも私のような、興味が目移りする種類の多趣味な人間についてですが)
それでも、私は何か才能が欲しいと感じています。
別になくても、生きれれば困るわけではないのですがね。
きっと、
- 才能を持つこと=自分に対する誇りや敬意を持つこと
と捉えているのかもしれません。
となると、私はデフォルトの状態で自分に対する誇りや敬意、
換言して、自己肯定感に欠けた人間であることが見えてきます。
さもしいですかね、それとも、皆そんなものなんですかね?
「何故そうなったのか?」ということは、まぁ、ここでは置いておくことにして、
話を「自分の才能」ということに戻しますと、
才能は自己肯定感そのものだと言えそうです。
「あなたの才能は何ですか?」
この質問に対する答えは自己肯定感の在りどころを指し示しているのです。
だから、例え一見つまらないようなことがその答えとして浮かんだとしても、
自身がそれを才能として認識しているのなら、
「自分は自分に敬意を持つことができている!」と考えるといいのかもしれませんね。
才能?...分からないよ
自分の才能が何だか分からなかったらどうすべきでしょうか?
...う~ん、どうすべきなんでしょうかね?
私自身、そっち側の人間なので、何とも言えないです。
先に述べた、才能=自己肯定感、ということを前提にして話をするなら、
まずは才能による自己固定感の向上を目指すのでなく、
単に自己肯定感の向上を目指すのが先決ではないかと感じています。
自己肯定感がマイナスの私にとっては、自分に対する否定から始まりますから、
「これが才能だ!」なんて胸を張って言えないんですよね。
ですので、自己肯定感を下げた原因を探り、紐解いて、せめてもマイナスの状態から、
プラスの状態に持っていくべきだと考えています。
そうなると、「避けたいこと」と正面切って対峙する必要があるのでしょうがね。
嫌なこと、やりたくないこと、自分を傷つけたこと、自分の性格を捻じ曲げたこと、
それらと関わったときアレルギー反応が出て、
逃げ続てしまい、一向に闘う勇気が持てない。最早、闘いたくもない。
私に欠けていることは、このようにして見えているのです。
そして、それらの克服の先には埋もれていた才能が確かに存在する、
と言えるようになるとも思っているのです。
人に提言をする前に、闘い行動を起こして才能を獲得すべきなのは、
私自身なのかもしれません。
毎日の記録
8月9日の記録
出来なかった良行動:無し
未回収の良行動 :読書1時間×2
回収分の良行動 :読書1時間×4、瞑想15分
足の裏が痛い。
何というか体の重さが右足の裏側にかかる度に、
骨に響くような鈍い痛みがある、ここ数日間です。
どうしてだろうかと、見てみると内出血をしたように痣っぽくなっていました。
何でこうなったんですかね?縄跳のし過ぎですかね?
それとも重心が右に寄ってるんですかね?なんだかピサの斜塔みたいですね。
ひとまず、痛みのある所に湿布を貼ってをなるべく動かないようにしました。
手の皮が剥ける怪我(自分の中では軽い事件)といい、
ちょっと体を不本意に傷つけてしまうことが目立ちます。
無理をさせているのかもしれません。
健康のための運動で、長く動けないような状態になったりでもしたら、
元も子もありませんからね。
私には、体を労わるという気持ちが欠けているのかもしれません。
自分に優しくしていきます。自分に丁寧になります。
それでは、また明日。