えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

形骸化した努力なんて止めてしまえ

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「努力をやるべきだからやる。」「努力を続けておくべくだからやる。」

全くその通りです。努力は例え結果が出ないときでも継続すべきです。

 

しかし、そこで問題となってくるのは、正しく行えているかということです。


目次


えりまとの形骸化した努力

「努力が正しい方向へ進んでいるか」

この疑問を自分の行っている努力に対して投げかけたとき、

「間違いなく正しい努力を継続できている」と答えられますか?

 

今の時点の私は恥ずかしながら、そうは言えない気がします。

それは2ヶ月良行動継続チャレンジの努力についてです。

 

「継続しているではないか、今も」

 

確かにその通りです。

良行動が出来ないことがあっても途中で全てをほっぽり出すことはしていませんね。

 

継続という点から見てみれば、正しい方向へ向かっているのかもしれません。

しかし、こと努力の正しさという話になってくると、

どうも良い評価は出来そうはないのです。

 

「何故そう考えるか?」

 

それは、今の私の努力が完全に形だけで中身を伴わないモノになっているからです。

 

もともと私が行っている良行動は、

その行動の継続を通して何かしらの発展を望むためのものです。

それが意味をなしていない。

 

「努力を超えてそこから得るべきもの」を意識せず、

ただその方法をこなすことだけに固執する。

 

手段が目的となってしまっているのです。

 

最近の記録を見てもらえれば分かると思いますが、

すべき良行動をよくサボっていますね。

それは「後でやれば良い」「ひとまずこなせば良い」

という考えがあるからそうなってしまっているのです。

 

本来在るべき姿は、どうにかして毎日継続出来るようになり、

また継続による恩恵を積極的に掴みに行くことです。

 

それが出来ていません。

それは正しい努力をしているといるのでしょうか。

こんな形骸化した努力に意味はあるのでしょうか。

形骸化した努力なんて止めてしまえ

努力の継続は一番大事ですが、その次に同じくらい大事になることは、

その努力の方向性の正しさです。

 

形だけの努力に意味はない、とは言い切れませんが、

本当に何かを成したいのであれば、そこについて見る必要はあると思います。

(というのも形だけの努力を継続してさえいれば、

何かしらの結果は出るとも思うからです。)

 

では正しい努力とは何でしょうか?

 

私にとっての正しい努力とは、

努力自体を目的とはしない、中身の在る良い質を保った努力のことです。

 

そして間違った努力はしても良いと思います。

ただそのことに気づけるようにしなくてはなりません。

 

「自分の努力の仕方が正しいのか?」

そうやって疑う機会を設けるべきですね。

 

形骸化した努力なんて止めてしまって、

中身の在る、または中身が伴うよう意識して努力を継続していきましょう。

 

私は自分の間違った努力に気づけました。

ちょっと遅かったですがね。

いつでも自分にとっての正しさを逃さぬようにしていきたいものです。

毎日の記録

8月5日の記録

継続日数
一日の総合評価
精神状態良好度
身体状態良好度
出来なかった良行動
55
6
5
6
1つ
快朝度
ストレス度
自己統制力
縄跳回数
懸垂回数
7
5
5
4000
31

出来なかった良行動:デジタルデトックス

未回収の良行動  :読書1時間×5、

回収分の良行動  :瞑想15分×4、読書1時間、HIIT、ジョギング20分、音読20分、縄跳4000回

 

前日の未回収分を、読書を除いて終わらせました。

 

今まで運動を後に回すことは無かったので、(ジョグ、HIIT、縄跳、ついでの懸垂)

どんなもんだろうかと思ったらえげつなくハードでした。

 

そりゃそうですね。いつもの2倍の運動をしているわけですから。

もう金輪際、同じことはやりたくないと思いましたよ。

 

因みに運動を開始して終わるまでに、2時間10分かかりました。

これ、逆に体に悪影響出そうな気がしますね。自身の怠惰に猛省。

 

今回の記事にあるように形骸化した努力は止めて心新たに継続していきます。

まぁ、2ヶ月良行動継続チャレンジは残り5日ほどしかありませんがね。

終わりだけでも良いものにしていきます。

 

それでは、また明日。