抽象化して幸せ受容力の高い人間になろう! 中編
前回の続きです。
「幸せ」の抽象化によって得られる核心を考えていきます。
目次
幸せの抽象化で見えてくるもの
前回は物事は膨大な抽象的事物の集合体と述べました。
それが真実であるならば、我々が認識する具体的な事象というものは、
単純なもののように見えて複雑であると言えます。
今回の主題である「幸せ」なんかその主たる例じゃないでしょうか?
哲学的探究が昔から東西問わず行われているという事実が、
はっきりとそのことを指し示している気がします。
確かにそうですよね。幸せと言っても、その条件、程度などは千差万別です。
「これが共通の幸せだ!」とは断言することは不可能でしょう。
そこで私は「幸せ」の抽象化によって「幸せの単純化」を図り、
分かりやすい幸せの在り方の一例を挙げてみたいと思います。
「幸せ」を抽象化し「幸せ」という具象的な像をぼやかして、
純粋な1つの概念と成すと恐らく、
幸せ→生
不幸せ→死
となりそうです。
非常に極端な概念の純化となりましたが、極論この通りなのではないでしょうか?
しかし「幸せを生死の観点から思索するといのがそもそもナンセンスだ」
と考える方もいるでしょう。
老荘思想がその例えですかね。
荘子が妻を亡くしたとき、「妻は形を変えただけだ。それを何故嘆くのか?」と彼の友
人に語ったとあります。
生と死を分断されたこととして見るのではなく形態の変化と見ればそのことを、
執拗に喜んだり、憂えたりして「幸せ」と繋げるのは間違っているということですね。
とは言え、ここで重要なことはあくまで「幸せ」に対する判断基準の1つを指し示して、それに基づいて「幸せ」になる手段を提示することなので「生死を幸せの基準にもっていくのは違う」ということには目をつぶることにします。悪しからず。
ようやっとここからが本題になりますが、今回はここで切り上げたいと思います。
毎日の記録
7月25日の記録
出来なかった良行動:無し
未回収の良行動 :無し
回収分の良行動 :無し
異例の事態は突如起こるものですね。
計画が大幅に狂って「マズい状況」になってしまいました。
予め余裕を持っておかなかった私がいけなかったのですが「なぜこのタイミングで⁉」
という気持ちを抱きましたよ。
ともあれ、なってしまった状況を嘆いても仕方がありません。
その時その時に適切な対応をして上手く乗り越えるしかありませんからね。
追い込まれた方が良い結果になるって場合もありますし、
臆せずただ無心にその状況を対処していきたいと思います。
それでは、また明日。