えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

「時間で縛る」と苦しくなる

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時間で区切ることは大切ですが、時間に重点を置いていると苦しくなってしまいます。

そこで、着実な成長に必要となってくるのは、最良な妥協点を見つけることです。

では、 時間で規制するその妥協点はどのように見つけていくべきでしょうか?



「時間で生きる」現代人

計画を立てたり、様々な課題に取り組んでみようとしたりすると、

必ず時間管理が大切になってきます。

 

「5時に起きる」

「これを30分以内に終わらせる」

「何月何日を目標達成日として頑張る」

 

...というように、我々は何かしらの目的意識を持つと、

それを時間に換算して対処していこうとします。

 

別段悪いことではありませんが、それは「無意識的に」と言っていいほどのことで、

時間に頼った思考をしているといってもいいでしょう。

 

つまりは時間という概念が我々の骨の髄までしみ込んでいるということです。

感覚としては自身と時間が一体化していると言ってもいいかもしれません。

(というのも現代人にとっては最早分離不可な域まで達している気がするからです。)

 

なので「時間で動く」ということは、

自分が外界に働きかけなくても自動的に起こることなので能動的に取り組むということ

だと言えます。

 

だからある程度は「時間で動く」という思考に身を任せる方が、

無駄に考えすぎたり、心労を抱えたりせずに済むのでとても便利なのです。

 

ところで、「過ぎたるが及ばざるがごとし」という諺がありますが、

それは「時間に頼りすぎること」でもやはり起こりえることだと、

言えるのかもしれません。

 

言い換えると、

時間を活用した目標の達成方法も、度を過ぎると上手く機能しなくなることもある、

ましてや悪影響を及ぼし負の状態にかねない、とも言えるのです。

 

「時間で生きる」現代人が、「時間で生きる」ために自ずから首を絞めることになる

何故そのような状態になってしまうこともあるのでしょうか。

詳しく見ていくことにしましょう。

 

「時間で縛る」と苦しくなる

時間を極度に区切っていき、そこに隙間を生じさせないとき、

ここではそのような状態を「時間で縛る」と述べることにしますが、

そんな時に問題は生じます。

(例外として完璧超人は「時間で縛る」ことをしても難なくこなせるかもしれません)

 

朝5:00起床→5:20分から20分間のジョギング→5:30からシャワーを浴びる...

 

朝の一連の行動を時間で区切った計画の例を用意しました。

この時点ならば、時間という特性を良く生かした、流れが良い計画だといえます。

そう言える要素は以下のものです。

  • 所々である程度の「間」を開けていること
  • 極度に細分化していないこと
  • 行動の1つを限りなく単純化していること

全てがうまく取り入れられていますね。

 

では、試しに「時間で縛る」計画に作り替えてみることにしましょう。

 

朝5:00に起床し、5:02に居間で冷蔵庫に昨晩冷やしてあるお茶を飲み、5:03から5:07分まで歯を丁寧に磨き残しがないように磨いて、

5:08から5:13までにトレーニングウェアに着替えスマホとイヤホンを携帯し玄関へ行きランニングシューズを履いて、5:15から5:35まで好きな音楽を聴きながら20分間ジョギングに出かけ、5:37から5:47までにシャワーを浴び終え...

 

ちょっと極端な例となりましたが、

時間という観点からは無駄なく、そして細部まで考えられた計画と言えますね。

ですが、なんだか見てるだけで疲れてきてしまいます。

 

それは、極度の時間の束縛によって心理的余裕を奪ってしまうからです。

心理的余裕を奪われた状態で、繰り返し行われる特定の行動を目前にすると

我々はそれのことを自分から進んでやっていることでも

「やらされている義務」だと捉えてしまいます。

 

自分で望んで行っていたはずのことが、やらされているという認識を持つ義務と化す。

ここで強制力を発揮する支配者は「自分自身」「時間」です。

 

結果的には「時間で縛る」ことを続けてしまうことで、一種の心理的苦しさを覚え

(余談ですが、私の場合は心的な息苦しさのようなものを感じます。)

効率よく行われていた行為とその流れがなし崩しに崩壊し、うまく機能しなくなる、

最悪の場合には、「時間で縛る」以前よりも悪い方向へと向かってしまうことになるのです。

 

「規制」と「放任」の釣り合いの取り方

時間による「規制」を厳しくしすぎると返って悪い結果となるが、

時間による「規制」を緩めすぎると、換言すれば、

「放任」するとこれもまた良い結果とはならない。

 

だから、丁度良い中間地点を発見しないといけません。

時間の「規制」と「放任」の中庸を目指す、ということです。

 

その方法は、

「厳しい時間的規制」を実践していき、徐々に緩め間を設けることで、

「いつまでも続けられそうだ」という心的余裕が生じる段階まで緩めていくことです。

 

そして、その時にあった釣り合いの点を発見したら、後は、

逆に少しづつ時間的規制を増やしていくのです。

 

そうすることで、「規制」と「放任」の釣り合いの点から離れることなく

「規制」側に引き上げていくことができます

 

要は「慣れ」ですね。

ですが早とちりして、急激に「規制」を強めたりすると、

大抵その分の負の反動が襲ってくるので気を付けなければなりません。

 

大切なことは、徐々に徐々に少しづつ、ということです。

 

毎日の記録

  継続日数    一日の総合評価   精神状態良好度   身体状態良好度  出来なかった良行動
14
6
4
6
読書1時間

 

今回の記事の話題でもある「時間」をうまく使うことができませんでした。

 

私の場合は「より時間で縛って」いかなければ、

1日を円滑に終えることができないようです。

 

時間の「規制」を念頭に置く生活をしてくると苦しくなるので、

避けたいところですが、

きっとその苦悩の先で新たな気づきを得られたり、

成長できると思うので邁進していくしかありません。

 

約30分は読書が出来ていないので、残りの分の本日に回収していきたいと思います。

 

それでは、また明日。