えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

記録(2022年8月10日)*読書メモ(2022年8月10日 夏目漱石『二百十日・野分』)

記録(2022年8月10日)

読書1時間 ◎(計2時間)
英語学習15分
運動

ジョグ20分、日替わりプッシュアップ100回

ストレートバーディップス連続30回(加重10kgぐらい?)

HIIT(Bicycle Crunch→L-sit→V-Up→Trunk Curl→Flutter Kicks→Squats)各15秒計1分30秒

未回収分

読書633時間(8月の読書時間計20時間)

読んだ本
起床時刻

6:50起床

読書メモ(2022年8月10日 夏目漱石二百十日・野分』)

高柳君と道也先生の対比。

道也先生から見た天地は人の為めにする天地である。高柳君から見た天地は己れの為めにする天地である。人の為めにする天地であるから世話をしてくれ手がなくても恨とは思わぬ。己の為にする天地であるから、己れの為めにする天地であるから、己れをかまってくれぬ世を残酷と思う。

夏目漱石二百十日・野分』209頁

目的の中心を自分にばかり据えていると辛くなります。

その辛さは精神的な歪みとして現れ、日が増すごとに強まります。

結果的に、高柳君は下記のような精神状態になりました。

彼は一人坊っちになった。己れに足りて人に待つ事なき呑気な一人坊っちではない。同情に餓え、人間に渇して遣瀬なき一人坊っちである。中野君は病気と云う。われも病気と思う。然し人間を一人坊っちの病気にしたものは世間である。自分を一人坊っちの病気にした世間は危篤なる病人を眼前に控えて嘯いている。世間は自分を病気にしたばかりでは満足せぬ。半死の病人を殺さねば已まぬ。高柳君は世間を呪わざるを得ぬ。

夏目漱石二百十日・野分』209頁

独りで居ることの不快な感覚だけが強まる。

独りは嫌だと思いながらも、それでもそこから脱せられない。

挙句は、「世間のせいだ」と嘆きます。

 

しかし、同様に独りぼっちである筈の道也先生は、

そのような心労を一切抱えず、泰然としています。

それは、上記した道也先生の生きる上での道(信念)があるからです。

 

道也先生が高柳君に、このことに関して述べたのが以下の文。

「それが、わからなければ、到底一人坊っちでは生きていられません。ー君は人より高い平面に居ると自信しながら、人がその平面を認めてくれない為めに一人坊っちなのでしょう。然し人が認めてくれる様な平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会される様な人格なら低いに極ってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来れば、彼らからは見くびられるのは尤もでしょう。」

夏目漱石二百十日・野分』222頁

 

道也先生、「自分は周りが理解できない次元に居るから認められないのだ」、

とかなり強めのことを言います。

 

例えば、あまりにも時代を先取りしたものを世界に提出したとしても、

「お前は何を言っているんだ」と足蹴に退けられてしまう...そんな感じでしょうか。

 

傲慢な考え方にも思えますが、まぁ、どうでしょうかね。

 

他者に認められたいがために、あくせく生きる、か。

己が道を信じ、認められんのは致し方ないと割り切って、ひたすらに突き進むのか。

そこまで悟りきれれば、高柳君のような煩悶もなくなるでしょう。

 

なれるのであれば、後者の方が案外楽なのかも分かりません。

 

 

それでは、また明日。