えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

記録(2022年8月9日)*読書メモ(2022年8月9日 夏目漱石『二百十日・野分』)

記録(2022年8月9日)

読書1時間 ◎(計2時間)
英語学習15分
運動

ジョグ20分、日替わりプッシュアップ100回

ストレートバーディップス連続30回(加重10kgぐらい?)

HIIT(Bicycle Crunch→L-sit→V-Up→Trunk Curl→Flutter Kicks→Squats)各15秒計1分30秒

未回収分

読書634時間(8月の読書時間計18時間)

読んだ本
起床時刻

6:00起床

読書メモ(2022年8月9日 夏目漱石二百十日・野分』)

大学を卒業した青年、高柳周作は文学者を志す。

しかし貧窮で望むように書く時間も余裕もない。

以下は、高柳とその友人、中野輝一(金持で余裕のある高柳と対照的な人物)の会話。

「あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕がある様な身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔命に疲れちゃ、少しも卒業の難有味はない」

「そうかなぁ、僕なんざ嬉しくって堪らないがなあ。我々の生命はこれからだぜ。今からそんな心細い事を云っちゃあ仕様がない」

「我々の生命はこれからだのに、これから先が覚束ないから厭になってしまうのさ」

夏目漱石二百十日・野分』109頁

卒業した者、ということに関してはお互い同じ立場にある筈なのに、

これから先の在り方についての認識が異なっています。

生活における立場が変わると、物事の受け取り方も変わりますね。

私はどちらかというと高柳君の考えに共感してしまいます。あまり余裕がないのかも。

常に余裕を持ちたいと思うのにこの矛盾があるのは良くないですね。

 

高柳君と道也先生の対話。道也先生は「文学者」について語る。

「ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害するものが敵である。たとえば貧とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲酸な事情とか、不和とか、喧嘩とかですね。これがあると学問が出来ない。だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了簡でいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑気な閑日月がなくてはならん様に思われていた。可笑しいのは当人自身までがその気でいた。然しそれは間違です。文学は人生その物である。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものは即ち文学で、それ等を甞め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語辞典を参考して、首をひねっている様な閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。従ってほかの学問が出来得る限り研究を妨害する事物を避けて、次第に人世に遠ざかるに引き易えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります」

夏目漱石二百十日・野分』109頁

道也先生が己の信条のために職を辞した、その具体的な理由が書かれていますね。

  • 文学:人生の酸いも甘いも何もかもをひっくるめた全てのこと
  • 文学者:文学を寛大なる心でもって自ずから味わい尽くした者
    • だからこそ、困窮する場面に自ずから突き進む

道也先生は文学者で在り続けるために、

毅然とした態度で物語の冒頭に書かれた行動を取ったのですね。

 

上記した余裕の点で言えば、「敢えて余裕を取ろうと必死になること」は、

少し野暮な在り方なようです。

 

それでは、また明日。