えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

記録(2022年7月19日)*読書メモ(7/19/2022 夏目漱石『吾輩は猫である 下』)

記録(2022年7月19日)

読書1時間 ◎(計2時間)
英語学習15分
運動

ジョグ20分、日替わりプッシュアップ100回

HIIT(Bicycle Crunch→L-sit→V-Up→Trunk Curl→Flutter Kicks→Squats)各15秒計1分30秒

未回収分

読書657時間(7月の読書時間計45時間)

読んだ本
起床時刻

6:50起床

読書メモ(7/19/2022 夏目漱石吾輩は猫である 下』)

 

猫の主人、珍野苦沙弥が鏡を見て自身のあばた面を気にしている場面。

「此位離れるとそんなでもない。矢張り近過ぎるといかん。―顔ばかりぢゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを言う。

夏目漱石吾輩は猫である 下 9章』

 

近過ぎるといけない。

近過ぎると余りにも明確かつビビッドに隅から隅まで詳細に見えてしまう。

それはよろしくない。知らない方がよかった余計な所にまで気づいてしまう。

おまけに少々刺激が強すぎる。

刺激も、ある程度の弱さであれば心地良さを感じるが、強すぎると痛みに転じる。

(これに関して、最近、日差しがあんまりにも強いので「これは刺激が強いなぁ」と驚きました。)

 

私は近眼なのですが、裸眼で過ごしてみるのが結構好きです。

視界がぼやけて明瞭になりきらないぐらいの方が、

やや不明瞭でちょっと昏い方が、低刺激で心持が良いのかも分かりません。

 

目が悪くなったから仕方なくそう思うようになったのか。

もともと不明瞭を好む心構えだったから体が応えて目が悪くなったのか。

何か関連があるのかも。

 

ドット絵も、ある種「不明瞭」な視覚情報です。

連綿とした情報ではなく、一つの四角のマス、この無機質な単位が、

微妙な色合い並びによって何か具体的なものだと我々に認識させているのですから。

「脳内で保管できる程度の情報を持つ不明瞭な絵」、

というのがドット絵の本質なのでしょうかね。

 

私がドット絵を好むのは不明瞭さに対する好みがあるからなのかもと考えました。

 

それでは、また明日。