えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

記録(2022年9月7日)*読書メモ(9/7/2022 夏目漱石『行人』)

記録(2022年9月7日)

読書1時間 ◎(計5時間)
瞑想15分 ◎(計30分)
運動

ジョグ20分、日替わりプッシュアップ100回

(マッスルアップ5回→ストレートバーディップス30回→プルアップ10回)×3

HIIT(Bicycle Crunch→Mountain Climber Twist→Hollow Body Rock→Mountain Climber Twist→V-Up→Russian Twists→V-Up→Trunk Curl→Russian Twist→Squats)各40秒計6分

未回収分

読書566時間(9月の読書時間計35時間)

読んだ本
起床時刻

6:50起床

 

9月の目標

  • 夏目漱石の小説を読み終える
    • 残りは『坊ちゃん』✅『彼岸過迄』『行人』✅『明暗』その他小品も
  • 体脂肪率8%へ突入(筋肉量は維持、増加させつつ)
  • 毎日15分の瞑想を朝にやる

読書メモ(9/7/2022 夏目漱石『行人』)

 

精神的な変調が次第に強まってきた一郎。長野一家は彼のこの状態を心配し、

学生時代からの友人Hと共に旅行に出かけるよう仕向けた。

以下は、旅行先でHが一郎について書いた手紙の内容。

 

「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許して呉れた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何処迄行っても休ませて呉れない。何処迄伴れていかれるか分らない。実に恐ろしい。」

夏目漱石『行人』塵労 三十二

止まれないからこそ不安。不安⇔安心

安心の類義語は「落ち着いている」「ずっしりと動かない」「ぶれない」などなど。

つまり、不安=「動」、安定=「不動」。

 

高速化する社会においては、同じ場所に止まり続けることが許されない。

何もかもが動き続ける必要があるので、不安が募る。

→どこかの一点だけでも不動にしておけば不安は取り除かれる

 

「(中略)兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たやうな結果に陥ってゐます。兄さんには甲でも乙でも構はないといふ鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方かでなくては承知出来ないのです。しかも其甲なら甲の形なり程度なり色合いなりが、ぴたりと兄さんの思ふ坪に嵌らなければ肯がはないのです。兄さんは自分が鋭敏な丈に、自分の斯うと思った針金の様に際どい線の上に渡って生活の歩を進めて行きます。」

夏目漱石『行人』塵労 三十八

 

一郎はオールオアナッシング的、完璧主義的な性格なようです。

私もそういう傾向がありますから、この文章は腑に落ちます。

ただそういう在り方って、窮屈になる一方で剣呑なんですよね。

こういうマインドで日々を過ごした一郎が精神衰弱になるのは仕方が無いでしょう。

 

「神は自己だ」と兄さんが云ひます。(中略)

「じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事ぢゃないか」と私が非難します。兄さんは動きません。

「僕は絶対だ」と云ひます。(中略)

 兄さんの絶対といふのは、哲学者の頭から割り出された空しい紙の上の数字ではなかったのです。自分で其境地に入つて親しく経験する事の出来る判切した心理的のものだったのです。

 兄さんは純粋に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然に此境地に入れるべきだと云ひます。一度此境界に入れば天地も万有も、凡ての対象といふものが悉くなくなって、唯自分丈が存在するのだと云ひます。さうして其時の自分は有とも無いとも片の付かないものだと云ひます。偉大なやうな又微細なやうなものだと云ひます。何とも名の付け様のないものだと云ひます。即ち絶対だと云ひます。さうして其絶対を経験してゐる人が。俄然として半鐘の音を聞くとすると、其半鐘の音は即ち自分だといふのです。言葉を換えて同じ意味を表はすと、絶対即相対になるのだといふのです、したがって自分以外の物を置き他を作つて、苦しむ必要がなくなるし、又苦しめられる懸念も起らないのだと云うのです。

夏目漱石『行人』塵労 四十四

 

ジャン・エルベール『霊性に生きる人ラーマクリシュナの教え』深澤孝訳

には、「取り敢えず、さっさと神を体現しろ(神を見ろ、神を聴け、神を実現しろ)」

とかそんなようなことが書いてあったような気がします。

(大分前に読んだのでうろ覚えですし、本が手元に無いので違うかもしれませんが。)

 

絶対と言われる様な境地に己が入って見ないと、それは分からないのでしょう。

知識として得たものと経験で得たものは表面的な情報としては同じでも、

本質的な部分においては、全く違いますしね。

 

一郎は学術的な在り方から考えに考え抜いた末、

遂には宗教的側面の強い思想に到達したのですかね。

 

 

「哲学者の頭から割り出された空しい紙の上の数字ではなかった」

「紙の上の言葉」でなくて「紙の上の数字」としたのはどうしてなのでしょうか。

数字は「絶対」の指標を持つ概念だからですかね。

 

「兄さんは純粋に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然に此境地に入れるべきだと云ひます。」

→これ、恐らくですが、瞑想で到達できる境地だと感じます。

 

兄さんの頭は明か過ぎて、やゝともすると自分を置き去りにし先へ行きたがります。心の他の道具が彼の理智と歩調を一つにして先へ進めないと所に、兄さんの苦痛があるのです。

夏目漱石『行人』塵労 四十六

 

これまで述べられたような「絶対」感を一郎は真に理解しながらも平安になれない

→精神のパーツ毎に乱れがあって整っていないから

 

 

兄さんの所謂物を所有するといふ言葉は、必竟物に所有されるといふ意味ではありませんか。だから絶対に物から所有される事、即ち絶対に物を所有する事になるだらうと思ひます。神を信じない兄さんは、其処に至って始めて世の中に落付けるでしょう。

夏目漱石『行人』塵労 四十八

 

「塩で作られた人形が海の中に入ると、その形を全て失って海そのものとなる」

というような記述が何かの宗教書にあったと記憶しています。

 

ここで一郎が言う「物を所有する」は、

「物を所有する」=「物に所有される」=「外界の全てと一体になる」

→「絶対に物を所有する事」

と解釈できましょうか。

 

それでは、また明日。