えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

記録(2022年7月4日)*欲が出るとものが作れなくなるようなので、瞑想で心を整えていく

記録(2022年7月4日)

読書1時間 ◎(計3時間)
英語学習15分
運動

ジョグ20分、日替わりプッシュアップ100回

HIIT(Bicycle Crunch→L-sit→V-Up→Squats)各30秒計1分30秒

未回収分

読書673時間(7月の読書時間計13時間)

読んだ本
  • 夏目漱石『こころ』(読了)
  • 夏目漱石『道草』
  • 坂本伸二『デザイン入門教室 [ 特別講義 ] 確かな力を身につけられるー学び、考え、作る授業』
起床時刻

6:40起床

欲が出るとものが作れなくなるようなので、瞑想で心を整えていく

欲が出ると良いものは作れない。

ここ半年、何かを作る際にきまって感じるようになったことです。

 

例えば、「多くの人に見て欲しい」だとか、

「べらぼうに巧く作って見た人をあっと驚かせてやろう」だとか、

何かそんな創作後に付きまとう欲が前面に出ると、どうにも良いものができません。

 

本来発揮できる創造性・偶然性が半減して存分に動けなくなるのです。

そうなると活動の進行は尻切れトンボで停滞に真っ逆さま、

半端な所で立ち止まざるをえなくなります。

これはどうにも居心地の悪いことで精神衛生上よろしくありません。

 

 

あくまでも自分にとって好ましいもの自分にとって良いと感じられるもの、

そういうものを純粋に作りたい、描きたい、

表したいという動機を持って挑むのが最も重要なのでしょうか。

 

そして、その動機に先ほど言ったような夾雑物が混じると、

作ったものは良かれ悪かれ質的な変化を起こすようです。

私の場合は、殆どよくない性質を帯びてしまう嫌いがあります。

 

ものを作り上げて、見返してみると、こう感じるのです。

 

体裁はある程度整っているが、あじきない。

仕上がりの密度が空になっていて出来に甚だ不満足である、と。

 

こういうことが最近多い。

 

創作活動を始めた最初期の頃(昨年の8月~9月頃)は、

単純に「作りたい」という力強い純なる動機のみで事に当たっていましたので、

非常に愉快な心持で作業していました。

 

そういう精神から生じたものは、

巧くなくとも妙に味があって何度も見聴きしたくなるものが多いです。

 

こういう創作に対する心持と出来栄えには、

何らかの関連があるように思えてなりません。

 

 

今現在の創作に対する心持はどうかという話ですが、

いざ取り組もうとすると心苦しさや歯がゆさが湧きたってきて、

手が付かないことが多いです。

そもそも何かを作るため、楽しんで思案することさえ落ち着いて出来ません。

 

この原因については、

創作を続ける中で肥大してきた邪念が頭の一角を占有してしまい、

創作の際に必要な感受性を遮断してしまっているからなのでは、と考えています。

 

 

畢竟、創作において今の私に必要なことは、

「自分にとって心地よいものを作りたい」という純粋な動機それのみなのです。

それ以外の雑多な邪念はいらない。

そんなものに憑りつかれて右往左往していては何も作れない。

 

では、どうすれば望ましい心を実現できるのか。

1年前の、あの楽しさを取り戻せるのか。

ちぐはぐな心をまとめ上げる術は何であるのか。

 

 

 

そうです。瞑想です。

瞑想をすればそういう邪な念は自然と衰退していきます。(経験談

 

そういえば、ここ暫くまともに瞑想をしていませんでした。

その影響で、気が付かぬうちに心模様が荒れに荒れていたのでしょう。

人間はすぐものを忘れますし、自分の状態が分からなくなりがちですから。

良かった状態のことも、悪い状態に上書きされればそれで仕舞いなのです。

 

つまりは、創作にとって悪い心の習慣に染まりながら、

それに気づかずに過ごしていたのが不味かったのですね。

 

そこで、瞑想によってこの精神を太平させることで、

私の望む創作への在り方が実現されると直感的に確信しました。

 

 

まさか、瞑想と創作がリンクするとは私自身思い至りませんでしたが、

これはなかなかに的を得た考えなのではないでしょうか。

実際、なんだかこの答えを得ただけで、未だ実践していなくとも、

正体不明の頼もしさを感じちゃっています。瞑想って凄いな。

 

 

ということで瞑想をしていきます。

 

それでは、また明日。