えりまとの在る所

記録を綴って愉快に生きようと試みる

「ボッチ」が「ボッチ」たる所以

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どうも、6割ボッチのえりまとです。

感覚的に6割です。4割はボッチじゃないと思います。

(6割ボッチって10割そばみたい)

10割ボッチじゃないので、適度に(?)人と関わるので、

心労を抱えずに、また、孤独にも感じずに楽しく過ごせてます。

 

今回は、そんなボッチがボッチになってしまう原因についての

考察をしていきたいと思います。(自分で思うんだけど何この記事?)



 類は友を呼ぶ

まず大前提として、人がどのように他人と関わるのかについてです。

 

人は誰かと一緒になりますよね。(ボッチを除いて)

それは一種の動物的な本能的行為ですよね。

 

狩って狩られる動物界では、身の安全を確固たるものとするために群れを作る

種族がいます。

そう、我々も本来は群れなくてはならないのです。

 

 

 

私は、人は同じ特性を持った同じような段階の人間が互いに引き合うのだと

考えます。

 

正しく「類は友を呼ぶ」ですね。

 

「ボッチ」という特性

 個人個人はそれぞれ複数の「特性」を持つといえます。

「向上心」「社交性」「怠慢」「寛大」「思慮深さ」「せっかち」「大胆」

「完璧主義」「天真爛漫」「心配性」「柔軟性」「根性」「反骨芯」「冷静」

...などなど挙げるとキリがありません。

 

それは性格を表すものでもあり、思考や思想に反映されるものでもあります。

複数の特性を併せ持ち、個人が形成されると、あとは同じような特性を持つ人間同士が

惹かれあいます。多分そう。

そうやって人は人と仲良くすると思うのです。

 

そこで私は特性のうちの1つに「ボッチ」というものがあると思うのです。

その特性内容は、

「孤独を求める傾向にあり、人との交わりを作らない、

人との交わり方が分からない、自分から接することができない」

という特性であるとしましょう。

 

「ボッチ」という特性が生まれた時代背景

過去、人が直接互いに関わらなければならなかった時代には、この特性を持つ人々は

少なかったのではないでしょうか。

ですが現在、科学や技術が急成長し文明が発展しました。

その結果、インターネットが発明され、人が人が直接的な関わりを持たなくても

意思疎通が図れるような環境が生まれました。

それが「ボッチ」という特性の成長を促進し、

「ボッチ」が1つの強力な人間の特性となりえたのではないかと思えるのです。

そう考えると「ボッチ」特性は最近確立したものともいえるのではないでしょうか。

 

「ボッチ」が「ボッチ」たる所以

ここまでで、人は複数の特性を持ち、似通った特性を持つ者同士で、集まり人間関係を形成するのだと仮定して書いてきました。

 

そうなると

「ボッチ特性を持つ人間は、ボッチ特性を持つ人間と仲間になるのでは?」

という疑問が生じます。

 

しかし、ボッチ特性は

「孤独を求める傾向にあり、人との交わりを作らない、

人との交わり方が分からない、自分から接することができない」

という特性です。

 

すなわち、例外的に、

本来同じ特性を持つ人間がたがいに引き寄せられるはずが、その特性のために、

人と交わることがなくなる、ということになってしまう、

と私は考えるのです。

 

これが自称6割ボッチが述べる

「ボッチ」が「ボッチ」たる所以であります。

(10割ボッチが本当のボッチじゃね?ファッションボッチがボッチを語るな!)

 

大事なのは心構えと行動

最後にボッチである同志に、

念頭に置いておくべき大切なことを書いておきます。

 

どうか、ボッチの人はボッチであることを恐れないでほしい。

どうか、自然体で、そして前向きの行動してほしい。

私はボッチには無限の可能性があると信じています。

 

何故なら、ボッチは一人で行動する力を持っているからです。

潜在的なものにせよ、環境がその能力を身に着けさせたにせよ)

そして孤独を活力にして、努力を誰の邪魔もなしに重ねられるからでもあります。

 

私もそのうちの一人ですから、ボッチであることの苦しみはよく理解しています。

(得意でも好きでもない球技の練習をただ一人でやってた高校の体育の時間は地獄以外の何物でもねぇ。)

 

前向きに、進もう

 

では、また明日。